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中井 学 なかい がく
1972(昭和47)年4月14日 大阪府豊中市生まれ。
ゴルフとの出会いは、小学生の頃、父に連れられ、ちょこちょこと練習場に。
14歳(中学2年生)で本格的に始めるが、一家はサラリーマン家庭。
バブル崩壊以前のゴルフ場は、今ほど庶民的ではなく、高額。そのため、練習は週イチ。
ラウンドも夏休みなどを利用して、年に数回。にもかかわらず、ラウンド5回目(始めて1年半後)に
73を出してしまったのがカン違いの始まり。
この頃から、「プロゴルファーになれるかも!?」などと思い始める。
奈良県立橿原高等学校に進学。
ラウンド数は1、2ヶ月に1回ながらも、高校3年生時に日本ジュニア出場。
大学に進学後もゴルフを続けるべく、親の「国立大合格したらゴルフ代出したる」という
ニンジンにまい進するも、受験に失敗。
失意の中、「こんな金のかかるスポーツ、俺には向いてない」と吐き捨て、ゴルフと決別。
予備校生活開始。
ゴルフから遠ざかって初めて、このスポーツを愛していたことに気付く。
なんとか、お金をかけずにゴルフができないものかと模索していたある日、
本屋でなにげなく手にとったアメリカ留学関係の本の、
「スポーツで大学代表になったら奨学金がおりるカモ」にビビビ。
これだと言わんばかりに、予備校をやめ、渡航費を捻出すべく、バイト生活開始。
新聞配達やスポーツ用品店でお世話になり、1年後、親を説得。
1992年7月渡米。
同9月、カリフォルニア州グレンドーラ(LA郡)にあるシトラスコミュニティカレッジに入学。
入学時、ゴルフ部はシーズンオフ。勉学に励むも、英語が全くわからず、オールF(落第)。
ストレス発散を食に求め、体重微増。(72KG→75KG)
春学期、晴れてゴルフ部入部も、代表入りできず、ストレス発散を食に求める。(75KG→77KG)
秋学期、授業に苦戦。アイスクリームがおいしいことも手伝って、体重は79KGへ。
2年目のゴルフシーズン。1年間の総授業の評定平均が0.1ポイント足りず、ゴルフ部強制休部処分。
1年間、勉学のみに集中することを余儀なくされる。
この間に子供の頃にケガをした左肘の手術を行い、
(執刀医は知る人ぞ知る、Fジョーブ博士です)6ヶ月のリハビリ生活。
左肘も完治し、これからだっちゅーときに、右肘骨折。
(心臓発作の人を助けようと救急車を呼びにいく途中で転倒。同じ病院へ・・・。13日の金曜日でした。マジで!)
全治3ヶ月。
食うしかないやろ!中華料理が安いことも手伝って、体重は80KGの大台へ。
コミュニティカレッジは2年制だが、そんなの関係なく3年目に突入。
授業にもついていけるようになり、(1年で英語ペラペラってヤツ、おったら出て来い!)ゴルフ部の代表にもなる。
嬉しさのあまり食べ続け、84KGに。
この頃、チームメートに「スゴ腕のティーチングプロがいるから、レッスン受けてみたら」と勧められ、
30分100ドル(ちなみに当時の私のバイトの時給が5ドル)で受けてみるも、
「君はリズムだけ考えればいいよ」の言葉に失望。
中古でビデオカメラを調達。独学の道を突き進むことに。
トーナメントの練習日に出没し、間近での見学&撮影&質問。(今思えば、怖いもの知らず)
大学から許可をもらってバイトしていた練習場で、自分のスイングを撮影していると、
常連達が「俺も撮ってよ」と寄ってきて、アドバイスなんかしてるうちに、
口コミで、「英語教えたら、タダでゴルフを教える日本人がいる」なんて感じで広がり、
ジュニアのレッスンをボランティアで行うことに。教えることの魅力を知る。
カレッジも卒業が近づき、ニューメキシコ州立大に編入する手続きが認められるも、
学生ビザの更新申請が認められず、(移民法改正で審査が厳しくなり、1年目の落第をつつかれてしまった)進学を断念。
それではと、クラブプロになるために、所属するゴルフコースとスポンサーを見つけるも、
グリーンカード(永住権)を所持していなかったため、PGAオブアメリカから、SORRYの一言。
1997年12月帰国。
1999年に始まったJGTOクオリファイングトーナメントにエントリー。
ファーストクオリファイを突破しツアープレーヤーに。
ツアー出場に挑戦する傍ら、アメリカ時代に培った経験を基にプロのコーチングを始め、現在に至る。
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